「橋」  奇跡的な再開を果たし、再び結ばれた玉珠と藤次郎であったが、お互い仕事が忙しく、 電話やパソコンネットのメール等の会話をする程度で、直接会う時間がなかなかとれずに、 あっというまに三週間が過ぎた。幸い、お互い同じプロジェクトで仕事をしていたので、 二人は仕事中でも堂々と相手に電話をかけて声を聞くことはできたが、私用な会話はあま りできず、「元気?」「うん」「忙しい?」「うん…」と言う位の会話しかできなかった。  そうしているうちに、週末になって、この日は藤次郎が設計した装置に組み込むために 玉珠が作成するプログラムの仕様書ができ上がり、玉珠自ら仕様書を持って藤次郎の居る 会社にやってきた。レビューとか、設計審査とか言うものである。  会議は、午後三時から始まり、特に問題なく、定時を過ぎた頃に終わった。会議の終わ りしなに、  「今日は、もう帰っていいよ。橋本さんとデートしてきな」 と、藤次郎と玉珠に対して係長は機嫌よく言った。思えば、会議の時間をこの時間に設定 したのは、係長の配慮だったのかもしれない。  藤次郎は玉珠を会社の玄関口で待つように言って、そそくさと帰り支度を始めた。  慌てて玄関口に行ったが、そこには玉珠の姿がなかった。驚いてキョロキョロしている と、玉珠の方が後から出てきた。どうやら、化粧を直していたらしい。  「あら、逆に待たせたみたいね」 と、玉珠は微笑んで言った。それを見て、「やぁ、みちがえたねぇ」と言うほど藤次郎は 気が利いていなくて、ただ綺麗に化粧した玉珠を見てジロジロ見ていた。その視線を察し てか、  「やあねぇ…ジロジロ見て。どお?綺麗になったでしょ?」 と、言ってとしなを作って見せた。藤次郎が小声で「うん」と言うと、玉珠は途端に不機 嫌になり、  「なによ…可愛いとか、綺麗とか言えないの?」 と、藤次郎に詰め寄った。  「…あっ、いや…綺麗になるもんだなぁ…」 と、言ってしまった。それを聞いて、玉珠は怒って、  「なによ、『綺麗になるもんだなぁ…』とは、なによ!」 と言って、そっぽを向いてしまった。藤次郎は困ってしまった。また、場所が自分の会社 の玄関口なので、退社する人達にこの痴話喧嘩をジロジロ見られているため、藤次郎はパ ニックになってしまった。  そんな藤次郎の心中を察してか、はたまた自分が恥ずかしくなったのか、玉珠は藤次郎 の腕を取ると、  「いこ」 と、言って藤次郎を引きずるように歩き出した。  我を取り戻した藤次郎が道々一生懸命玉珠に謝るが、玉珠は前を向いたまま一言も口を 利かなかった。でも、その割には藤次郎と腕を組んで歩いていた。  玉珠の機嫌が直らなくて、困った藤次郎であったが、ふとひらめいて、玉珠を引っ張り だした。  「ちょ…ちょっと、藤次郎。どこ行くのよ」  「いいとこ」  いきなり引っ張られ、不安げな声を出した玉珠に対して、藤次郎は一言言っただけだっ た…  藤次郎は、一軒の居酒屋に入った。居酒屋と言っても、板前の大将と女将がやっている 小さな店である。藤次郎が入るなり、  「いらっしゃい」 と、女将が元気良く言った。そして藤次郎の後ろに居る玉珠を認めて、  「あら、だんな。今日は奥さん連れてきたの?」 と、にこやかに言った。『奥さん』という言葉を聞いて、玉珠は少しうれしくなった。  「おい、かかぁ。だんなはまだ独身だよ」 と、大将が横から口を挟んだ。藤次郎が恥ずかしそうにうなづくと、  「ほれ、みろ」  「なによ、将来の奥さんかも知れないじゃないか」 と、大将と女将は言い合いを始めた。でも二人とも嫌味が無く、それが日常の会話である ことが始めてきた玉珠でも判った。  藤次郎はそんなことはお構いなしに、カウンターに玉珠を座らせると、目の前のお品書 きを広げて玉珠に差し出し、  「なにがいい?」 と、聞いた。玉珠はお品書きを見ていて悩んでいたが、それをそっと藤次郎に差し出すと、  「まかせるわ」 と、微笑んで一言だけ言った。それを聞いて藤次郎は、  「大将。今日は何がお勧め?」 と、言った。それまで言い合いをしていた二人は、ピタリと喧嘩をやめ、  「真鰯のいいのが入っているよ。生でよし、たたきにしてもよし、味噌とあえてなめろ うにしてもよし…」 と、言って大将はざるに載せた鰯を見せた。  「…じゃ、”なめろう”で。お酒は…日本酒でいい?」 と、藤次郎は玉珠を見た。玉珠がうなづくと、  「日本酒を燗にして、お銚子を四本貰おうかな」  「へい」 と、大将は気前よく言って、料理に取り掛かった。  お通しが出され、やがて燗にされた銚子が出てくる。  「いいところね…よく来るの?」  玉珠は、店を見渡して言った。  「ああ」 と、言って藤次郎は銚子をとり、  「まずは一献」 と、玉珠に銚子を向けると、玉珠も猪口を取り、  「いただきます」 と、言って微笑んだ。藤次郎が銚子の酒を猪口に注ぐ。玉珠はそれを一口つけると、  「あら、美味しい」 と、口に手を当てて言った。女将は笑って、  「いいお酒でしょ、あたしの実家で造っている酒だよ」  「そうなんですか?」 と、言って玉珠は感心していた。そして、今度は玉珠が銚子を持つと、  「はい、藤次郎」 と言って、銚子を差し出した。玉珠の酌で今度は藤次郎が飲む。  「うん。うまい」  女将は笑っていた。そうして二人で差しつ差されつ飲んでいるうちに、先ほどの鰯がな めろうになって出てきた。  「こうしてみていると、似合いの夫婦みたいだねぇ…」 と、女将に言われた。そう言われた途端、藤次郎、玉珠、二人ともお互いの顔を見合わせ て真っ赤になった。  「ういういしいねぇ」 と、それを観ていた大将にもからかわれた。  適当に飲んで、店を引き払った二人は、まだ別れたがらず、ブラブラと歩き始めた。玉 珠は藤次郎の腕にぶら下がるようにして歩きながら、  「また連れてって」 と、甘えて言った。  「うん…でもいいの?あんなところで…」 と、藤次郎が首だけ玉珠の方に向けると、  「うん。大きな居酒屋とかうるさいところより、静かでのんびりできる方が好き」 と、言って玉珠は頭を藤次郎の腕に着けた。  「ふーーん」 と言って、藤次郎はまた前を向いた。  橋の上を歩きながら、二人は黙っていた。  玉珠は藤次郎の腕を振り払って突然、走り出すと、橋の欄干に寄りかかり、暗くて見え ない川面を見ながら、  「…怖い、吸い込まれそう…」 と、ポツリと言った。藤次郎はそんな玉珠を見ていたが、玉珠の姿が急に愛しくなり、玉 珠を後ろから抱きしめた。  「あっ…」 と、玉珠の口から驚きとも歓喜ともいえない声が漏れた。  ここまでは、かっこよく決まった藤次郎であったが、この先どうしてよいものか困って しまった。困ったので玉珠を抱きしめたままにしていた。すると、  「藤次郎。藤次郎の心臓がドキドキ言っているのが聞える」 と言って、玉珠は首だけを藤次郎に向けた。あまりの緊張に、藤次郎の心臓は爆発寸前に なっていた。  「うん。もう、ギリギリ…」 と、藤次郎が漏らすと。玉珠は抱きしめていた藤次郎の手に自分の手を添えて、それを自 分の胸に当てると、  「わたしもね、ドキドキしてるの…」  なるほど、玉珠の心臓もドキドキしていた。  …しばらく、その格好のまま二人は居た…いや、お互い固まっていたというのが正解か もしれない。  どの位経ったか二人とも判らなくなっていたが、玉珠から、  「ねぇ、わたしのとこ来ない?」 と、やんわりと聞いた。藤次郎はただ一言「うん」と言うと、玉珠を抱きしめている手を はずした。  川沿いのサイクリングロードを二人連れ立って歩く。さっきとは違い、お互い手をつな ぎ無言のまま歩いていた。 藤次郎正秀